大きな鉢植えの白百合を見つけました。まるで手入れされた様子がない百合で、背丈以上になっていて、放っておくと前後左右に繁茂しっぱなしになって、歩行者の邪魔になることを心配してか、ビニール紐で大雑把にくくってありました。 その所為もあるでしょうか、おまけに取材時は蒸し暑い夕まぐれだったので、見かけたときはすこし暑苦しさを感じました。 可哀想ではアーリマセンカ。やはり白百合には清楚さを求めます。 彩色画を試みる前にチョット落書き練習してみたものがあります。左に掲げた「百合」の描きかけです。 そうだ!この調子で手を動かせば、楽勝だ!と合点した時点で描き手を止めた・・・ 「ヨッシャ!この流れに乗って綺麗な白百合を描こう・・・気分あらたに大きめサイズの紙面を用意して描き始めると、つい何時ものクソ真面目風タッチになってしまう。 つい「植物を描くからには日本画風に仕上げたい!」とか思ったりして、できるだけ正確な下描きをと丁寧に作業を・・・・・とやり出し、案の定、線描き終えたら、例の如く着色の自信が失せて頓挫してしまう次第。 彩色してみたが、毎度のことだが手に負えなくなって、最終段階では鉛筆タッチを加え、ご覧の如くの体たらく。日本風?・・・・・何れの分野の絵ともつかない面妖な雰囲気を漂わせに終わった。せっかく描き上げても満足感不足。 (これらは5年前に描いたものです。最近ナマクラ病が進み、絵筆に手が出難くて悩み深し) 彼女たちは私の姉とほぼ同世代です。姉はあの当時、師範学校の学業をヨコに置き、軍需民需を問わず機器類回転部の重要部品ベアリングを製造する不二越富山工場に勤労動員され、作業に明け暮れてました。 終戦直前、8月1日に富山市は大空襲を受け、工場地帯や市街地も含め、地方都市で最大の爆弾焼夷弾により焦土と禍す被害を受けました。姉は寄宿舎生活でしたが、夏休暇だったので一時帰省中で罹災を免れました。工場は修復されないまま間もなく終戦を迎えました。市街地もほぼ100%炎上してしまいました。 私は当時国民学校三年生でしたが、深夜に家人達がわいわい騒いだので、ろくに寝ないで当夜の事をしっかり記憶してます。B29?の大編隊がわが町の上をゴーンゴーン爆音轟かせて機体標識灯を堂々と点滅させているのも目視しました。その後「富山市街が炎上してるぞ」と町内中騒がしくなって、家並みの途切れたところに行きました。山越しに30kmも離れているのに夜空が赤くなっていました。幼いながらもショックでした。しっかり瞼に焼き付きました。 姉はクラスメイトで被害を被った方も・・・云々・・・と後日語った事もありました。 終戦の日も町内の大人達が騒がしかった様子に何か特別の日なんだなー・・・との思いをした事を記憶してます。無論、我が国は負けたんだと時を置かず認識しました。 末っ子ガキンチョだった私はといえば、その頃、ノホホンと川遊び、小鮒とりなどでの熱中時代であったが・・・・・戦後の食糧難、育ち盛りに食い不足世代として過した辛さを味わった事などが強烈な印象として残っている。両親の実家は何れも農家だが、それぞれ大黒柱は戦後になっても外地に抑留されていて帰還が遅れ、働き手不足で多くの生産が望めず、食い溜めを望んでジジババの家に出向くが、スイトンばかり。良質米の生産地なのに、ガッカリの記憶が甦る。 夏が過ぎ風あざみ♪……私の心は夏模様♫(少年時代・井上陽水)そうだ!夏が過ぎたら野アザミなんぞを描いてみたいものだナ。 吾が少年時代、戦後の珍奇な体験など際限もなく思い出します。 久々にこの白百合を見ながら、平和はいいなぁー・・・・・そんな事などに思いを致し 痴戯原駄羅衛門78歳10ヶ月(8月14日)書き留めてみました。今秋には数え歳80。内輪で傘寿の食事会などと・・・の企画とやら ※ = それにつけても東京オリンピックのエンブレム。これだけケチが付き、制作デザイナーにもケチが付きまくってます。それでもオリンピック組織委員会は商標登録を盾に使い通すのか?・・・・・まったく日本人として恥ずかしい。悲しい。嘆かわしい。白紙に戻せ!!! 創り直せ!!!
by ky11shige
| 2015-08-14 10:51
| 駄画
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